琉球四柱推命 天方夜譚(scheherazade シェヘラザード)運命鑑定所

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若沖

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生涯疾風怒濤のrevolutionary
Scheherazade ルーツを辿る旅路

幼少期~10歳

地球人学校

 

1960年代中頃、京の奥座敷の地に産まれる。
幼稚園の運動会・駆けっこの競争に出場、序盤トップを疾走。
その時!共に競争していた子が転ぶ。
私は”転んじゃった子”が気になるあまり、助けるべきか?
それとも走り続け、トップ独走すべきか?…あぁ~悩む~…
「ほっといて走ればいいのに、何してんだろう?この子わぁ?」(母談)
兎に角、お節介にもほどがありあまる程、他人の事が気になってしょうがない子供だった様だ。
10歳の時、父が何処からか『グアム島にて地球人学校入学』なる旅を見つけてきた。
ボランティア大学生のお兄さん・お姉さん達が、10歳~15歳の子供達のお世話をしながら、
年齢も人種も住む環境も異なる者達が『地球人』として共にキャンプ場にて過ごすというプログラムだ。
私と姉は夏休みを『地球人学校』で過ごす為、グアム島へ渡航した。
校長先生は”アクシデント男爵”なる世界中を冒険しながら放浪の旅をしている怪しいオジサン。
彼の各国冒険の話に聞き入り胸を時めかせた。
キャンプ場にゲストとして登場したのは、かのダークダックス。
彼らが即興で唄う『ライオンは寝ている』に聞き惚れ、まだ見ぬアフリカの地に思いを馳せる。
恋人岬を訪れ、展望台から見た水平線に地球が丸い事を目の当たりにし、恋人達の悲しい物語に胸を痛めた。
自分の10歳という”時”は琉球四柱推で見る『前世と繋がる年』。
この渡航と出会いは必然なる運命の道筋を知る幕開けであったと感じずにはいられない。
しかし、これから先に深層心理の中に巣食う『五里霧中』状態への変化を及ぼす星の動きも始まっていたのだが、まだ10歳にも満たない自分にはそんな運命の不思議がまだ解るわけなどなかった…

家族旅行に見えた運命の必然性

カワサキGPX
家族旅行に見えた運命の必然性 小学校の間は、家族で毎年決まった民宿へ海水浴へ行った。 ある時、ツーリング中であろう数台のbikeが私達の車を追い越して行った。 カッコいいなあと後ろ姿を羨望の眼差しで見ていた。 しばらく走ると、渋滞が起きていた。 どうやら先で事故が起こった様だ… 大きなトラックが停まっている。 その横を通過したとき、私は見てしまった… シートを掛けられている人の片足と流れる黒いような液体…その先に頭を抱え座り込む数人の若い人達と…bike… 次の日の朝刊を見ていた父が静かに「昨日のオートバイの子…亡くなってる」 この事故も決して偶然通りかかって目にした事ではなく、自分にも関係してくる決して忘れることの無い必然の出来事だったと思えるお話に続く事になるのであった。

五里霧中に彷徨する10年から人生と云う耐久レースの立て直しに向けて…

KAWASAKI GPX
五里霧中に彷徨する10年から人生と云う耐久レースの立て直しに向けて…
 
思い出すのも超ネガティブにならざるを得ない、決して戻りたくない暗黒の時代でした。
家も学校も職場も全てが嫌で嫌で…逃げ出すことしか考えてなかった。
でも、親の保護下に居る未成年にはどうあれ、手も足も出ない。飛び出す勇気?も力も知恵もなかった。
何をしようにも、五里霧中に彷徨しているような覚えしかない。
小学校…度々保健室にお世話になった。
中学校…軽いイジメにあったり、高校受験のストレスで神経を病み、10㎏体重減。
高校…環境の変化に付いていけず、再び保健室でお世話になった。
学校にも家にも居場所を見出だせなかった。
親は「義務教育ではないから、辞めたければ辞めても良いけど、
その後の身の振り方・生きて行く道を自分でちゃんと探してから辞めなさい」と言われたが、
生きて行く為の術も考えも何も自分は持っていなかったのだ。
親に与えられた衣・食・住・学…何一つ自分で手に入れたモノなど無いことを知った。
親の保護管理下にある自分には『自由』も無いのだと、私にはそう感じられた。
「好きなことしたかったら、働いて自分のお金でやりなさい」と親は云う。
『自由をお金で買う』という目標を立てた。
大学進学の時間が惜しかった。一刻も早く『お金』でまず親からの自立?!を買いたかった。
 
しかし、専門学校卒の大人にも成りきれてない自分に社会の風は強かった。
再び神経を病み…更に10㎏体重減…
OLと云う職にも馴染めず、夢も生きる目標も無い…
 
10歳から20歳までのこの時期は、私にとっての『生涯の中で最も苦しい試練の時期(不和周期)』というモノでした。
何の試練であったのか?!
とにかく何をやっても上手くいかない、行き場もない、心の晴れる事のない10年でした。
随分後にソレが何であったのか、解るのだが、それはまだ後のお話しで…
 
漸く『生涯の中で最も苦しい試練の時期』が明けて脳内に少しの光が差し込んで来た時、
私にも変化が起こった。
半引籠り生活のある夏の日に、TV画面から私の脳内に衝撃を与えたモノが飛び込んで来たのです。
『鈴鹿8時間耐久ロードレース』との出会い、それが私の世界を変えてくれました。
夏の熱い日、感動しか呼ぶことのない地獄の耐久レースに挑む彼らを目の当たりにして、
「何か行動を起こさなければ!」と前向きになり、自動二輪の免許を取得し、
行動範囲を広げ、出会いも広げよう!と思い立ったのです。
 
出会いが出会いを呼び、ある男性と知り合うに至りました。
ナント、辿れば私の父と彼のお父様がお友達だったと云うのです。
それも又、運命が引き寄せたのでしょう。複雑な糸を辿って…
彼らとミニバイクレースチームを作り、活動する中で、又新たな出会いを呼びました。
オートバイのレースというモノは怪我は付き物です。
チーム内の男性が足に大怪我をした事をきっかけに、献身的に介抱する私を気に行ってくれ、
意気投合し、その男性と親密なお付き合いが始まりました。
私達はお年頃の中で出会った故、あれよあれよという間に、周りから 固められ結婚する事に!!!
 
四柱推命の占い師である父は早速私と彼との相性を視たのですが…
宜しくない結果が出ていました。
それでも、家から、仕事から世間から逃れたい私は聞く耳を持たず、
父も自分の命が尽きかけている事を解っていたので、せめて娘の花嫁姿を見たいと、
私達は運命に翻弄され、試されるかの様に結婚へと踏み込んでしまったのです。
 
その時の男性(元夫)の大運というモノには結婚の卦が出ていました…が、
その中にも関わらず、私も彼(元夫)も結婚してはいけないとされる歳運と云う年に結婚をしてしまっていたのです。
二人とも全く同じ歳運を持ち、それがピタリと一致してしまっていたのです。
この様に相性が合っていないのにも関わらず、出会い結びついてしまうのはカルマのなせる業なのです。
父には解っていたはずです。母にはその事を言っていた様ですが…
でも、父と歩いたバージンロードは父の最期の人生に華を添えたと思います。
 
年(歳運)が変わり、父も亡くなり…
理性が戻ると同時に良い夢が悪い現実へと変わっていったのです。
『相性が合っていない』二人の生活も、考え方も擦違い崩れて行きました。
 
私は離婚届を用意し、遂に家を出たのです。
 
父は既に他界していました。
「離婚をするような娘は家の子では無い!二度と敷居を跨ぐな!」真面目で潔癖な母は私を許しませんでした。
その頃はまだ、「何が有ろうが女が我慢をして添い遂げよ」という時代でした。
自分のやってしまった事をも鑑みて、心中は四面楚歌の気分でした。
世の中が、「あの人、離婚したんだよ!」と噂し、後ろ指を指されている妄想にまで囚われました。
 
それでも、自分の人生を諦めたくはないので、顔を上げて前を向いて、
胸をも張る気持ちで歩む決心をしていました。
 
子供の頃目撃したあのバイクの事故を思い出しました。
バイクの縁で結ばれたはずが、上手く運転出来なかった為の結果なのでしょうか?
でも、私はまだ生きています。
人生という耐久レース、ただ転んだだけだ。まだマシンは動く。次の周回はきっと上手く乗りこなせる。
最速で駆け抜けなくても良い。確実に秒を刻むのだ!
この中型二輪自動車免許が後に新たな出会いをもたらしてくれたことは、もう少し先の話ですが…
 

30歳、プーケットから3年で人生が変わる

プーケット
30歳、プーケットから3年で人生が変わる
 
1992年(元)夫との家を出て離婚協議は滞っていた。
離婚届には署名・捺印をしてあったが、(元)夫が提出をせず持ったままなのだ。
聞こえが宜しくはないが、正式に離婚は出来ていなかったのだが、新しい彼氏は居た。
 
1995年、プーケットへ飛んだ。
毎年恒例、当時の彼氏と何処へ行こうか…
国内はほぼ網羅してしまっていたので海外へ行きたくなった。
なかば強制的に彼氏を連れて行く形になってしまった。
彼氏は海外が苦手だったのだろう。
観光へもレストランへもネガティブ姿勢だった。当然最後の方は喧嘩になってしまった。
2人で新婚旅行気取りの旅はコレといった収穫もなく、その後どんどん意見や趣味の食い違いで…
2年後お別れする結果となった。
成田離婚という都市伝説は実話だと思った。
今更ながら、その彼氏と相性もあってはいなかったのだ。
プーケット旅において、その彼氏と私はつくづく合ってなかったんだと云うことが判ったので良かったんだと思う。
それを知るためのプーケットだったのだと…
 
1997年までの出来事であった。
 
(元)夫との離婚が正式に決定した事を彼氏に報告し、私達のこの先をどうするのか?と私は問うた。
長年お付き合いしたのだが…彼氏的には
「お前とはこの先結婚を考えることは無い」と言う結論だった。
プーケット旅から別れまでの3年間は、やはり私にとっての『試練の年(不和が起こる年)』となっていた。
だけに留まらず、ナント!その彼氏も全く私と同様に『試練の年(不和が起こる年)』だったのだ。
そして、運命というモノは引き合うモノである。
1994年~1996年(元)夫までもが、『試練の年(不和が起こる年)』だったのだ。
父が言った(元)夫との相性も合ってなかったという事実をも忘れてはならない。
 
(元)夫との離婚成立&彼氏とも破局のW離別だ。
3人の運命は引き合い複雑に交錯するという必然の流れの上にあったのだ。
運命が私に何かを教えようと与えた出来事だったのだ。
 
彼氏と喧嘩して、独りでホテルのbarで過ごした夜、staffの方達はとても優しく、気さくに接してくれて癒された。
彼等との出会いも大切な人間関係なのだと思う。
「今度は本当のハネムーンで来てくださいね!」との言葉を背にプーケットを後にした…
プーケットの海風は強く、波も高く荒れていた事も思い出す。

運命の上に掲げたい言葉がある…人類発祥の地ケニアへ!

アフリカ
運命の上に掲げたい言葉がある…人類発祥の地ケニアへ!
 
西暦1998年~1999年に変わる大晦日、大阪南港で『タイタニック号引き上げ品展』へ行った。
妹と妹の彼氏と私の3人で…
しかし…妹の様子は違っていた。
展示品を一つ一つ見ていくうちに…
得体の知れない何かに憑かれてた様に思う。
 
何をしていても人間は産まれたら後は死に向かうのみとも言えるかもしれない。
確かに、突き詰めれば最期には何をしていても死ぬのだ…
だから死ぬ結末ならば、全てが無駄なのかもしれない。
妹が亡くなる前にそんな事を言っていた様に思い出す。
物凄く大きなため息と共に「何が楽しいの?こんなのどおせ死ぬのに…無駄じゃ無い?」
いや、いや、いや、いや、いや…重いって~何言ってんの~?
私には彼女の心の闇は計り知れなかった。
2月…妹は静かに永遠の眠りについてしまった。
奇しくも彼女の運命の上で、最も重い試練の時の事であった。
彼女は乗り越える事無く、自ら人生を終わらせてしまったのだ…
私は何も出来なかった自分を悔いた。
 
この後私自身、タイタニック号に導かれるかの様な運命の旅を辿ったのだが、
それはもう少し先に書く事にする。
 
西暦2000年、私は生きる意味を完全に見失っていた。
 
このままでは駄目だ…
否、死に憑かれる前に、私は生へのエネルギーを得る為、
生あるからこその喜びを感じる為、アフリカへ!人類発祥の地へ飛んだ。
生きとし生けるものの息吹を感じ得る為に…
 
1月3日、出発するはずの飛行機が未だインドを出ていない?
添乗員さんの尽力でJALに詰め込まれ一路デリーへ!
デリー一泊後、翌日はムンバイへ飛び二泊足止め。
一か八かの空港にてキャンセル待ち、ようやくエアフランスを捕まえてモーリシャスへ。
その機内にて隣席の方(インド系の女性)と拙い英語でお話ししたら、
ナント一回り違いの同じ誕生日という事が判明した!
(パスポートを見せ合い確認した)
「神様のお導きだわ!」と彼女は言った。
(その後、1~2度手紙とメールをやり取りしたが残念ながら、いつの間にか発展は途切れた)
でも、この様な回り道をしなければ、絶対合うはずはなかったと考えれば、
この出会いも偶然では無く、必然なのだと思う。
この思い出も彼女の事も、私は忘れる事は絶対に無い。
 
再びキャンセル待ちの間、少しモーリシャス観光。
とりあえず、アフリカ大陸の隣までは来た。
 
その後は疲れ果て、記憶が無いが、とにかくケニアに着いたのは夜中であった。
市内一泊後…
いよいよケニア国立公園内に突入!!!
縞馬の群れだぁ!!!!!
「stop!please wait!」
安全な場所に車を止め、
アフリカの風を胸一杯に、息吹を身体中に巡らせた。
勝手な話だが、「何故、人は此処に来ない?来るべきだと思う」
と全身全霊で思った。
 
沢山の動物に出会った。マサイ族の方々に出会った。
気球に乗り込んで空中散歩をし、朝日を拝み、キリマンジャロを遠くに望んだ。
 
「人類発祥の地、大地溝帯を見ないかい?!」
解らないままに自分は素晴らしい場所に来ていたのだ
人類発祥の地だ!
生きていてよかった!
心の底から思った…帰りたくないとも思った。
この景色を妹が見たとしたら、生き延びてくれただろうか?とも…
 
この旅も決して偶然ではなく必然の運命だったのだと信じている。
 
帰国しても日常は変わらなかった。
空は、同じ空の下なのに…
曇ってしか見えなかった。
 
変わらない迷いの生活…
妹が亡くなって、母も弱くなったのか、
「帰ってきたら?」とまで言い出した。
『二度と敷居を跨ぐな!』と強気だった母が…
女の独り暮らしは何かと苦労が絶えない。
けど、それが買ってでも手に入れた私の自立と自由なのだ。
初心貫徹!
もう少し、あと一歩、何かが見えるまでは…帰れない。
 
先日、TVで見た、未だ行った事は無い国のお話しなのだが、
小国のドブロブニク・ロヴリイェナツ要塞 入り口の上 には、
「何を犠牲にしても国の自由と独立だけは保ち続けなければならない」
という強い意志が伝わってくる言葉が刻まれているらしい…
 
 NON NENE PRO TOTO LIBERTAS VENDITUR AURO
 
アフリカから処国へ売られると云う運命を課せられた方々にも、
私の運命の上でも、掲げたい言葉である!
 
「どんな黄金と引き換えても、自由を売り渡してはいけない」
 

『キューバ』自己革命への旅~全編~

運命のキューバ1
『キューバ』自己革命への旅~全編~
 
アフリカから帰着後、空が少しだけ明るく見えるようになった。
この空は、アフリカの空と繋がっているのだと・・・
そう考えるとちょっとだけ、心に何かの希望を感じた。
でも、相変わらず私の生活は『パンのみに働く』日々だ。
 
朝起きて、満員電車を1時間半乗り継いで仕事へ行く。
8時間拘束の仕事をこなし、再び1時間半かけて帰宅。
これといった友達も居ない。彼氏はちょい訳アリの人。
10時就寝…そして、次の日の朝、と云う繰り返し。
休日は主に独り映画・独り博物館・独り美術館で心を癒したが、
独り暮らしに自分が休日に声を発するのは「大人1枚」だけ。
コンビニエンスストアや大型スーパーマーケットの登場で、
商店街で言葉掛け合いのお買い物などと云う時代は無くなっていた。
 
何となく生きていた。35歳…そろそろ身の振り方を考えた方が良いのだが、
日々の暮らしに追われるのみ。
 
そんな中、自分の自暴自棄なやる気なさが発端で仕事を解雇された。
致し方ないが、自業自得と云うヤツだ。
明日の家賃&パンのお金が途絶えた。やばい!やばい!
色々と面接に行くのだが、顔色に自暴自棄なやる気の無さが書いてでもあったのだろうか?
すべからく落ちまくる。
当時、『派遣』なるお仕事システムが立ち上がった時期だった。
藁をもすがる思いで登録をしてみた。登録するのは簡単だった。
向こうも商売なので、こちらのやる気を見ているのだろう。
毎日電話して「仕事ありますか?」と、一応の積極的態度を見せていた。
漸く仕事にありつけたが、日給月給の日雇いで、日々現場は変わるし、
時給800円、交通費無しである。
それでも、『仕事が有る』という事に感謝の念を抱く事を学んだ。
 
しかし!!!運命は私に悪戯をしかけてきた。
有る時派遣されたのは『サントリー山崎蒸留所』であった。
派遣の仕事に入る前、今はもう解雇された元職場に居た頃、
こちらの工場見学に行った事があった。
ラインの工場現場を見学するのだ。
私はその時、「この仕事は嫌だなぁ~退屈で面白くなさそうだもん」
などとのたまってしまったのだ。
元職場は3Kであったけれども女の子の憧れ花形職種だったので、
自分の中に、嫌な奢り高ぶりがあったのだろう。
今、その工場にて、私は生活の糧を施して頂くのだ。涙が出て来た。
大いに反省した。風邪を引いて辛かった体調を押してでも働かせて頂いた。
どのラインの作業も自分なりの楽しみ方などを考え一生懸命働いた。
 
皆様が『マッサン』でご存知の、あの『サントリー山崎蒸留所』である。
 
『1923年、竹鶴は鳥井とともに山崎の地に国産第一号蒸留所
(現:サントリー山崎蒸溜所、大阪府三島郡島本町山崎)を建設。
しかし、やがてウイスキー造りに対する考えの違いから鳥井と訣別し、
北海道の余市に渡り、「余市蒸溜所」を開設します。
北の大地で理想のウイスキーを追い求める竹鶴の挑戦が始まる。
この時に竹鶴が余市で興した会社が現在のニッカウヰスキーである。』
 
と云う話なのだが、私は偶然?…にも1990年に、
北海道余市の『ニッカウヰ スキー工場』を訪れていたのだ。
否、これはもう、偶然ではなく、必然の運命としか思えないのです。
 
そんな時、かつてアフリカの旅で知り合った小父様から、
「キューバへ行かないか?!」と云うお誘いが来た。
2000年アフリカの旅中に肺炎を患った私へ、抗生物質を施して頂いた命の恩人である。
即決で行く事を決めた。
さて、キューバってどんな処?…
まだキューバが日本人にさほど知られて居らず、旅行本も手に入らなかった。
独り暮らしで貧乏人の私はPCなども持っておらず、情報を入手する方法がなかったが、
兎に角行ってみる事にした。
しかし、カメラを持っていない。
前回のアフリカ旅では『写ルンです24枚撮り』という、
今となっては骨董品的価値?の趣すらある代物1個しか持つ事が出来なかったので、
どれほどのシャッターチャンスを捨てた事か…
でも、カメラを買うお金は無い。
ので、姉の夫(義理の兄)からカメラを借りるべく、一時帰郷。
未だに独りで頑張り、誰からの援助も無く、アフリカまで行って帰ってきた。
そして今度は「キューバへ行く」!!!と言う私のバイタリティーに感銘して貰えたのか?
母とは少しずつ歩み寄れていた。
そんな母が「これ…」と言って小さいけどそれなりに高性能なフィルムカメラを買ってくれた。
再び涙が出た。
今はペンタックスK-20(広角レンズ付き)やパナソニックLUMIXを持つ事が出来る身になったが、
母から貰ったこの『フィルムカメラ』は下取りに出さず、今も大切に保管している。
この時の事を忘れないように…
 
そして、2001年1月5日成田発キューバへ!!!!!
どんな運命の絡みが待ち受けているのだろうか?!
 
~後編に続く~

『キューバ』自己革命への旅~後編~

revolution
『キューバ』自己革命への旅~後編~
 
2001年1月3日。
正月休みで時間を持て余していた私は、東京まで在来線で行くと云う計画を立てた。
駅に行って、時刻表を見ると、成程!京都から東京まで東海道線が繋がっている。
30L程のバゲッジ&30LのJack Wolfskinのリユックとで次の旅が始まった!
(Jack Wolfskinのリユックはアフリカ旅の時購入したものだ。今でも何処へ旅するにも、
普段使いにも16年間酷使しているが全く問題は起きていない優れ物だ)
何度も何度も乗り換えて13時間かけ、東京までたどり着いた。
アフリカ旅で知り合った女の子の家に泊めてもらい、小父様達と合流。
2001年1月5日成田発キューバへ飛んだ。
 
当時は当然、アメリカと国交断絶状態であったので、
アメリカはヒューストンで乗り換え、メキシコに入り、
漸くキューバに到着したのは、1月4日夜の8時位だった。
男3人女2人のキューバ訪問編成チームは、夜のキューバ市内に降り立ったのである。
バスを下りた私に通りすがりのアフリカ系お兄さんが、
「ハ~イ!良い夜だね!俺、今からサルサダンスパーティーに行くんだけど、一緒に来ないか?」
という熱い歓迎を受けた。
「今着いた処だし…」と丁重にご辞退したのだが、「な~に?!夜はこれからだぜ!」と言う。
軽くステップを踏みながら、通りを進む彼…
なんてホットでクールな国なんだ!!!
お兄さん、やにわに振り返り「俺は先に行って踊ってるから!良かったら来なよ!」
まだ言ってる…長旅の疲れが吹き飛ぶ笑顔のお兄さんだった。(場所聞いてねえし…)
 
次の日からキューバ市内をあちこち見て回った。
お決まりのコースであるが…
ヘミングウェイの邸宅、ヘミングウェイ御用達のBERコヒマール。
レストラン(エル・アヒベ)にては”キューバの秘宝、Mr.オマール・リナレス ”に出くわした。
モロ要塞、旧市街…等々、至る所にChe・Guevaraの影を見た。
街を挙げて”Che”を讃えていた。
私はこの時に初めて”Che”の事を知った。
キューバの革命を知った。
訪問前に知っていれば、もっと貪欲に”Che”の軌跡を追っただろうに…
 
街には音楽と踊りがあふれていた。
Cafeで、STREETで、音楽と踊で満たされていた。
どれも違った感じの、オリジナリティー溢れるラテン音楽の宝庫だった。
老いも若きも『音楽と踊りが有ればALL OK!』という様に見えた。
 
仕事がなくても、度々断水しても、人民ペソ(CUP)に価値が無くても…
家が壊れていようが、家の中を木が突き抜けていようが、
車の底が一部無くても、ドアが一枚無くても全然問題など感じていない。
 
300人は乗れるという『ラクダバス』、エンジンを積み替えたアメリカンクラシックカー。
木に吊るしたタイヤで笑いながら遊ぶ子供達。皆、皆素敵な笑顔だった。
『cafe Tropicana』の美しく気品溢れ自身に満ちたダンサー達が、
キューバの夜をより一層熱くする。
街には『観光お巡りさん』なる英語が流暢な警察官が沢山居られた。
女子だけで歩いていても、何一つ怖い思いなどしなかった。
Whiteの若者がアフリカ系の方を自転車タクシーに乗せ、ひた走る光景には、
なんだか微笑ましいものがあった。
 
República de Cuba、通称キューバ…
大アンティル諸島に位置するラテンアメリカの共和制国家であり、カリブ海の島国である。
同じ島国である、JAPAN(日本)は資本主義の比較的豊かな先進国である。
当時、自分自身が感じ得る日本は、
ムンクが『叫び』を描くに至ったその3部作同様に思えて仕方がなかった。
(【ムンク『叫び』に至る三部作】も合わせてお読みください)
こちら≫

発展はしたが、自分の中では陰鬱な日本。
何もないけれど、開放的明るさを醸し出すCuba。
(全てを把握した訳ではないけれども、個人的感想である)
 
全く…自分は病んでいたのかもしれないし、厭世的だったのかもしれない。
何かを変えなければ!自分の中に改革を施さなければ!…
帰国して、”Che”や”Castro氏”について勉強した。
『革命』とは何ぞや???!!!
 
この旅がこれから先、私の人生に多大な影響を与え、人生の礎の一つとなった。
ムヒカ元大統領の言う『自分にとっての幸せを探して下さい。
世界を変えられる事は出来ませんが、あなた自身が変わる事が出来る』と云う事だ。
 
『革命』とは…
「革命」の語源は、天命が改まる(「命(天命)を革あらためる」) という意味である。
中国周代の占術書で、五経の一つである『易経(革卦)』の出典によると、
「革」は「あらためる」の意味で「命」は「天命」の意味。
古代中国では、天子は天命を受けて天下を治めるとされており、
革命は天命が改まり、王朝が変わる事を意味した。
更に、今までの社会を覆す根本的な変革の意味から、
政治にかかわらず急激な変革の意味でも「革命」は用いられる様になった。
また、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。
今日行われる易占法の原典であるが、
古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、
共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、
占術師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。
 
少し難しい話だが、『政治家』と『占術師』と『革命家』は一線上にある。
と言っても過言では無い様だ。
今、自分が向かおうとしている処は、そういう処なのかもしれない。
”Che”や”Castro氏”の背中を追って……
 
~~そしてその後、私はNYへたどり着いたのだった~~~

歴史が何かを教えようとしている?
~神からの啓示、New York・Bostonの旅~

New York・Boston
歴史が何かを教えようとしている?
~神からの啓示、New York・Bostonの旅~
 
2001年9月11日、日本時間23時30分頃、
姉と電話でくだらない話に興じていた時だ
「え?!テレビ付けて!早く!ニュースでとんでもない事が起こってる!!!」
 
WTCの衝撃的な映像が映っていた…
 
アフリカ、キューバを共に旅して来た友人がNYに留学して間もなくの事だった。
彼女の無事を確認できるのに半月かかった。
彼女は恐怖に怯えていた。
すぐにでも行きたかったのだが…私がNYに向かう事が出来たのは、
2002年3月末頃だった。
午後8時、NY上空、飛行機の中からWTC跡地から放たれるレーザー光線を見た。
 
友人は幾らか落ち着きを取り戻し、元気そうではあったが、
当時は一ケ月ほど外出が怖かったと言っていた。
NY、マンハッタンの街中は混沌としていた。
WTC周辺は、まだ瓦礫やら土埃が沢山残ったままだった。
世界中から観光客が訪れるNY…街の土産物屋には、
”その時”の写真が使われたポストカードが沢山並んでいた。
 
2週間程NYに滞在し、マンハッタン中を隈なく見て回った。
Uptown・Middletown・Downtown、Centralpark…STRAWBERRY FIELDSで追悼をした。
Grandcentralstation・BrooklynBridge・SOHO・Rockefellercenter、
Macy'sとTiffanyの前、Empire State Buildingには半日居た、ChryslerBuildingを目の前に…
Colombia University・FlatIron Building・5thAvenue・Chinatown・LittleItaly、
Liberty Island…自由の女神像の足元までは行けた(当時中には入る事は出来なかった)。
AMERICAN MUSEUM OF NATURAL HISTORYには1日中居た。
子供の頃に観た映画『GREASE』の世界、christopher・crossの
『New York city serenade』を聞いて妄想していた煌びやかな摩天楼!
憧れのNew York!超大国で世界の中心地と云う場所に今、自分は立っている。
 
若き友は言う「金髪に青い眼!憧れない?!」
「否…そんなには…」「え~?!かっこいいじゃん!」
まぁ、そうかもしれない、映画のお話しやAmericandream、摩天楼に憧れはあるが、
そういう所にポイントが有る訳ではない。
私は自分が日本人で有る事に自信と誇りを持っている。
自分の黒髪にも、黒い瞳にも、黄色と呼ばれる肌の色にも絶対的な自信と誇りを持っているのだ。
その真意は若き友たちには解らないのかもしれない…多くを語った処で疎ましがられるだけだ。
若き友たちと私とは10歳程も年が離れているのだから、生きた時代、育った時代・環境も違う。
 
旅の途中から少しずつ、少しずつ、若き友たちと意見が衝突し始めた。
ほんの些細な…本当にほんの些細な事から大喧嘩に発展してしまった。
NY留学中の若き友より紹介された店が「今一つだった」という事を、
彼女がBathroomに居る時、もう一人の若き友と話していたのだ、
それが彼女に聞こえていたらしい。
「私の居ない時に悪口言った!!!」とものすごい剣幕で怒り始めたのだ。
私は「その様なつもりでは無い、口が過ぎたと貴女が感じたのならば謝る」と誠心誠意謝罪したが…
彼女から許されないまま、二対一で私を、これでもかと云う程攻撃して来た。
その直後からNY留学中の若い方は私を完全無視したのだ。
私はこれ以上謝りようも無く、取り付く縞も無く過ごす事を余儀なくされた…
 
St.PATRICKChurchのミサに出席した、人との諍いを起こしてしまった事を懺悔すべく…
神への祈りは届かなかった(ましてや私は仏教徒ですから…)。
後半のNYは心持の悪い、気が晴れる事のない旅となった。
 
9.11以降、皆の心が沈んでいたのだろうか?神経が過敏になっていたのだろうか?
それとも攻防体制にあったのか…NYの空は灰色に見えた。
 
そんな中、色々な意味で思い出深い場所がある。
『ELLIS ISLAND』だ。
移民の島エリス島、現アメリカ国民の40%に当たる人の祖先が、この島から入国、
閉局されるまでに1700万人の移民がここから上陸し、現在のアメリかを築いた。
移民局を経てアメリカ入国した人々の姿を、様々な記録や写真などで紹介されており、
移民たちの新天地にかける夢や希望、故国への思いが伝わる。
現アメリカ在住の方達も、先祖の軌跡の記録を見に訪れる処だ。
中には小さな日本の女の子が通った記録もあり、何かしらの感慨深い思いが沸き起こる。
私にとっても又、異なる思い入れのある処なのだ。
亡くなった妹と視た『タイタニックからの引き上げ遺品展』…
タイタニックから生き残った方々も、此処『ELLIS ISLAND』 に到達したのだ。
生と死の狭間で生と死を心に刻んで、到達したと思う。「生と死の狭間…」、
そんな事等を思いながら館内を隈なく見学した。何かしらの縁を感じないではいられなかった。
そこへ、旅を共にしている若き友が私に「何?此処…こんな処、何にも面白くない!
何でこんな処に連れて来たの?!」と言い放った。
もう、何も言う気も起こらなかった。只々、悲しかった。
4月初めのNYに冷たくて凍えそうな雨が降った。
その後のNY滞在は、心此処にあらず…何を見ても只、心が疲弊して行くだけだった。
TIMESSQUAREの輝きと喧騒が意識の中の遠い所に映っているだけだった。
 
その後、私と若き友はNYを離れた。留学中の若き方とは和解する事は無かった。
今度は若き友の知り合いを訪ねてBOSTONへと向かった。
 
気持ちは塞いだままだった。Bostonの君が言う「日本が恋しい?日本に帰りたい?」
そういう訳では無い、何となく疎外感を感じていただけだ。
 
BOSTONに於いては『Cambridge University』や『旧国会議事堂』、
『FREEDOM TRAIL』を見て回った。
アメリカ独立戦争に於ける最初の銃火が交わされた場所へも行った。
(ただ、草が生え、荒れ地としか思えない何も無い平野だった)
 
今思うと、歴史的価値と意味のある場所に行っていたのだ。
アメリカ独立戦争勃発の地、ELLIS ISLAND、GROUND ZERO、STRAWBERRY FIELDS …
これらの場所を巡る事は、自分の運命の上で決して偶然などではなく、必然の事なのだ。
丁度、BOSTONに居た時、映画『SCOOP』の事件も同時に起きていたのだ。
歴史が、私に何かを伝えようとしているのだと感じずには居られない。
些細な諍いで、友だった者を2人失くした事も何かの啓示なのだろう。
 
BOSTONに3日程滞在した後、皆と別れ、私は1人でNYへ戻った。
1人で夕刻のManhattanを歩いた。
Melting pot(人種の坩堝)と言われるNY。
誰も何も気にしない。私が何処から来て、何者なのかなど…
この旅の中で、何となく今この時が一番心地よく感じた。
 
夜明け前にManhattanを出た。
昨夜の喧騒の影など一切見えないとても静かなNYも美しい。
空港へ向かうTaxiの車窓から見た夜明けのManhattanは私に語りかける、
「逃げ帰るのか?!」
確かに大都会の喧騒に飲み込まれたのだ。今の私にNYは眩しすぎる…
私にとってこの旅は『別れ』しかなかった。
 
「How about NY?」Taxidriverが問う、
「Too Big city for me」
「Come again?」
「…Maybe someday」
そう、いつか心が強くなったら、再び戻ろう…
心の中で哀愁的にNew York city serenadeが流れていた。

『戯夢人生』『非情城市』に観る~台湾旅情物語~

台湾
『千と千尋の神隠し』『悲情城市』 の舞台となった、仇分を観たい!
と思ったのが、台湾へ行ったきっかけだった。
『死ぬまでにこれだけは見ておけ!映画【非情城市】』
 
日本統治時代があり。鈴木商店(戦前より日本の財界を席捲した) との貿易。
日本敗戦後、国民党軍による台湾接収。
国民党軍と228事件、本省人と外省人、中国共産党と国民党、国民党と民進党等との対立政治。
そうした混乱と複雑さの中、発展しつづけてきたという事が分かった。
激動の時代を歩んできた台湾の歴史や、
親日家が多く、穏やかで愛しむべき台湾人の心に触れる事が出来た。
 
その歴史の中、日本を含む諸国に、翻弄されてきた台湾。
日台関係が不穏な時もあったが、 日本よりも小さな島国(?)だが、
それでも親日で有り続けてくれる台湾・その国の人々等を、
この目で見て肌で実感したいと思った。
『台湾はなぜ親日なのか ~台湾史の基礎知識~』(櫻木 雄一郎氏コラム・朱雀式ニュースより)
 
実際、本当に親日の方が多く、道を尋ねても、タクシーに乗っても、
日本語が解る年老いた方、日本語を勉強中だと云う若い方、
皆親切で、嫌な思いをする事等ありませんでした。
ガイドブックには「治安が良くない」と書かれていた『華西街観光夜市』などは、
全く問題も感じず、むしろお気に入りスポットになったほどです。
 
仇分にて『非情城市』の撮影が行われた茶囈館でTeatimeをしていると、
お店の方から、撮影当時の生写真を沢山見せて頂けるという貴重な体験もできました。
店内には、日本統治時代のセピア色の写真などもあり、日台関係について考えたり、
景観に見とれたりしながら、ゆっくりと過ぎて行く時間を満喫しました。
 
花蓮「阿美文化村」の観光施設にて、
恋愛や狩りなどアミ族の物語に基づいた歌や踊りのアトラクションを見学した。
女性の方は皆、とても美しかった。
男性の方は、日本統治時代、高砂義勇隊として多大なる力を、
日本軍の為に発揮してして頂いたと聞く。
 
太魯閣渓谷の美しい景観を堪能し…
花蓮空港へ戻る道には、延々と台湾空軍401聯隊(花蓮基地) の塀が続く。
「我々台湾人としては、中国人の事を嫌いな訳では無い。政治に問題を感じているだけだ」
という話を聞いた。
「我々台湾人が、何故親日であるか?…日本の統治時代が一番良かった。
 台湾の各地が発展し、教育も受けさせてもらった」と…
とても有難い言葉も頂いた。
 
松山空港からTAXIに乗った時、「圓山大飯店まで」と言うと、
「発音が違う!」とRepeat after me!的な正しい台湾語講座が始まり、
何度も、何度も「圓山大飯店」を3人で連呼していた。楽しかった。
 
圓山大飯店で初めて中国の獅子舞を見た。
 
又、映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』と言うのを観た。
1931(昭和6)年8月、日本統治下の台湾から嘉義農林の野球チーム「KANO」が甲子園に出場。
KANOは、日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民の「三民族」の混成チームだったと云う、
守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人、俊足の台湾原住民、
彼らが、分け隔ても差別も無い指導とチームワークで、奇跡を起こしたと云う実話もある。
 
そんな、日本ととても近い国『台湾』に導かれのも、
決して偶然ではなく、必然的カルマを感じずには居られない。
 
私達人間は同じ地球人として協力し合い、生きて行く事…それは決して不可能では無いと思う。
 
そして私は、”別れしか無かったN・Yの旅”から気持ちをリセットして、
新たなるパートナー(夫)と共に、再び『ルーツを探す旅路』を此処からスタートした。

鑑定士
scheherazade
(シェヘラザード)・澤村

鑑定士 scheherazade(シェヘラザード)・澤村

四柱推命鑑定士の父親の元に産まれ、父亡き後、世界を放浪しながら自らの運命と魂のルーツについて独学。2011年に琉球四柱推命に出会い、八島高明師匠に師事する。亡き父の意思を継ぐべく四柱推命鑑定士としての活動を決意、現在に至る。

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『嵐の中で君に向けた歌』
Half time Old
おすすめの歌です。



師、曰はく『ほとんどの事象・現象は四柱推命で説明がつく』という事

人生には「運命の周期変化」といわれる重要な法則があります。それは10年ごとに訪れます。
その急な変化があった時に、「祟り」等の霊的な事だとか「方位が悪い」とか、何かのせいにしてしまいがちです
そう言った事も、有るかもません。例えば金縛りに会うとか?何かを見た!とか?しかし、そう言った事も科学で解明されているようです。各個人で生じる「運命の周期変化」を琉球四柱推命でも、学問として証明出来る事が可能になっています。